高校時代の話をしよう。

娘たちが知らない、父親の恥ずべき時代、でもそれは本人には楽しかった日々でしかない。
私服だったと言うのは、以前のブログに書いたけど、どうやって通学していたのかとか、当時どう生活していたのかを書き残します。
まず、この時代バイク通学は当然禁止だったし、バイクで通学する前について、自転車だった事は容易に想像できると思います。
でも、「ブーンバイク」とか、「マジソンバッグ」とかは知らないと思う。
いわゆるママチャリのような自転車ではなく、折りたたみ自転車のタイヤが太いバージョンみたいなスタイルで、椅子の後ろにマジソンスクエアバッグと言うのが流行っていた。
当時「チョンバッグ」は電車通勤に多く使われ、「マジソンバッグ」はチャリケツに使う奴が多かった。
何れにしても、中には何も入ってなくて、ペチャンコにしてある。
中間テストだろうが、期末テストだろうが、前日まで徹夜で麻雀しているような生活。
理解してくれなどとは言わない。
但し、赤点は取らないという自頭は持ち合わせていた。

リポビタンD一本に入った「トルエン」が、一本ヤリ銭(千円)で売っていた時代、塗装店で「ブルーダイン」という接着剤を買いに行ってたし、練馬駅周辺の居酒屋に集まり、先輩たちと飲むのも当たり前。
先輩たちの前で披露する持ち歌も、数え歌か軍歌と言う、まだ戦後の名残りを感じさせる時代だったかも。
また何故だか、まだ時代背景的に恨みがある訳では無いのに、朝鮮人や韓国人を敵対視していた頃だった。
タバコをタンベと呼び、マッチやライターをテッカリと呼ぶ。
今考えると差別もいいとこだな、当時を恥ずべきで反省もしている。

歯を失ったのも、朝鮮人をチョンと呼び、突然チョーパンを浴びせられたからだが、歯を折られながらも、その事で唇を切り、血が流れていても相手をぶん殴りながら、「何だテメーのチョーパンは?痛くも痒くもねー」とやり合ったのを思い出す。
その後、高校に180cmクラスの朝鮮人7人が訪れ、美和は居るかと、正門前で張っていた。
友人のワタベと言う男に下駄箱で、俺の生き様見せてやるからついて来いと言って、正門前に見に行って、その人数とガタイの大きさに、「ワタベ、逃げるぞ!」と、裏門から自転車を担ぎ上げ脱出した思い出がある。
その頃、友人が家族共々、朝鮮人によって放火され、焼き殺された時代だ。
チョンバッグに白いテープを巻くのも、喧嘩買います的なメッセージだったし、その後は友達の友達は皆友達的な感じで日本人同士は仲良くなるが、ガンくれ合う(メンチ切る)のも普通の行為だったんだよ。
中学時代の友人は、「アイビー」とか「「トラッド」がファッションだったけど、俺たちは「ニュートラ」とか「コンチネンタル」とが主流で、その時代は、赤坂や六本木などのディスコに行く時は、何故かそのコンチなダブルのスーツでいくのが普通だった。
外ではまだクールスとかが、走り回っていた頃だ。
メチャクチャだったけど、楽しかったのは確かだな。