娘たちに残す、知らないパパの青春の1ページ。

パパが中学校一年の時は、まだ慶応ボーイを目指して頑張っていた。

しかし、いつの頃からか半グレ生活の方向に向かってしまった。

道を外していったのは、家が貧乏だった事をその理由にしていたが、言い訳としてはその方が楽だったからだ。

当時、高校入試は群制度で、頭の良い学校順で、32群、34群、33群、31群となっていて、32群は東大を目指すような学校だった。

本当ならばその次の34群にチャレンジしていてもおかしくないし、入試結果(点数)からも、ギリ合格していたかも知れなかった。

しかし、私立に行くなどカネに余裕はなく、滑り止めでもあるし、学費その他支払いの少ない都立に確実に合格するため、31群を受け入学した。

当時の都立高校は私服の学校がほとんどで、校則も緩く、自由奔放な学校だった。

そんな中、悪友と共に過った方向を進んでしまった。

高校時代もアロハシャツに短パン、雪駄、胸ポケットにはタバコのハイライトを入れたまま通学するという不届き者だった。

先生からは絶対卒業させないと言われていたが、ちゃんと卒業した。

当時は暴走族の全盛期で、現代のような少数で活動するのではなく、300台〜500台ほどの台数で、道を占拠して周回していた頃で、ブラックエンペラー、スペクター、武州連合、極悪、ピエロなど友人もメンバーにいたが、私は群れるのが嫌いなので、一匹狼を貫いた。

誘いもあったし、囲まれたりも多かったが、知り合いも多くて何事もなく時代は過ぎていった。

大学への進学もスッパリ諦め、受験すらせずに卒業後は働き出した。

働き始めた赤坂プリンスホテルでは、宴会部の組合員で、週給制だった。

仕事一本をシングル、二本を二塁打、三本が何故かホームランなどと呼んでいて、当時の大学出の初任給が月10万行かない位の時代、毎週8万円位は稼いでいて、そのほとんどを愛車か、赤坂のスナックやディスコ通いで消えていた。

まだ、19歳の頃だ。

愛車「セリカ1600GT」をいじくり、レースまがいの走りもしていて、喧嘩と違反で原宿署には何度もクルマを押さえられ、元に戻すことを条件に返してもらった。

当時、ソレックスのツインキャブはドライバーでアイドリング調整をしていた。

しかも無保険で乗り回していた。

今考えると恐ろしい限りだ。

万が一の場合は、一家心中やむ無しだった気がする。

追突事故を起こしても、恐喝まがいの行為で相手に支払わせたこともしばしば。

後輩に金を集めさせ、取り戻したら後輩たちにちゃんと返していたとはいえ、当時の私は一体何を考えていたのか、とても不思議だ。

「アホ坂46」のような仲間のセンターに居たのも懐かしく、恥ずかしい青春だ。