もっと小さな頃はどうだったのか・・・?
2021年08月09日 18:45
私が産まれた病院は、浅草にある聖愛病院で、3,800g位だったと記憶している。
母親の実家が浅草は千足で、浅草寺にもよく行ってたし、祖父の絡みで、大相撲も観に行っていた。
周りには靴屋が多かったし、少し歩けば吉原という場所だ。
前回の東京オリンピックが行われた1964年、豊島区に住んでいて、カトリック系の並木幼稚園の年長さんだった。
翌年は、椎名町にある、千早小学校に入学し、名取先生という担任に「もみじ」なる手のひらで背中にビンタされ、真っ赤に腫れ上がる、躾という名の今では完全な虐待にあっていた。
給食の食器はアルマイトで、粗食もいいとこ。
クジラ竜田揚げは定番中の定番。
牛乳などでは無く、脱脂粉乳だった時代だ。
家のクルマはオースティンとスバル360だったのは覚えている。
まだ戦後の日本を象徴するような、白装束の帰還兵が上野駅辺りには沢山いて、母親に見てはダメ!とよく言われていた。
白黒テレビは、中学生まではそうだったと思うし、観音扉にレースが掛けられ、大事な家電だったのは言うまでも無い。
小学校低学年だった頃、オヤジが大映映画に勤めていたというのもあって、ガメラシリーズや大魔神などは見ていたが、東映とか東宝の映画はあまり観ていない。
ゴジラシリーズがそうだ。
巨人・大鵬・卵焼きの時代だったので、巨人ファンだったが、オヤジの仕事の関係もあり、当時の大毎オリオンズ、後の東京(ロッテ)オリオンズのファンでもあった。
小学生のファンクラブ会員でもあったため、もう取り壊されて無いが、お化け煙突で有名だった南千住の、東京球場には良く通った。
日本シリーズのロッテ対巨人の試合、長嶋のホームランにロッテ側スタンド応援席から、大拍手をしたのも覚えている。
まだまだサッカーより、野球だった時代だ。
少年野球チームには、背番号「3」か「1」ばかりだったのは笑えた。
その後二度の引越しの後の小学4年、当時足さえ早ければ人気者になれ、友達も出来た時代だった。
小学校5~6年の担任が、私の根性を強くし、そしてひん曲がって行った要因だったと思うし、もう一人の要因が兄貴だったのも事実。
俺は外弁慶、兄貴は内弁慶、タイプは全然違っていた。
兄貴からは、自分がイジメにあっていたウサを晴らすように、家に帰れば殴られ蹴られ、蟻を食わされ、学校では無実の罪を着せられ、その暴力教師から何十発も殴られた事がある。
その教師は今なら即刻クビの暴力教師で、教壇の下にはいつもウイスキーの瓶を隠し持っていた。
私はその時、兄貴も含め初めて殺意というものを覚えた。
教師の方は、小学校の卒業式に敢行しようと考えていたが、感づかれたのか欠席して居なかった。
校門の脇には、木刀を隠していた。
大人になり、兄貴には酒飲んだ時に「本当はぶっ殺そうと思ってたんだぜ!」とカミングアウトしたことがある。
人間、いつ、どのようなタイミングで犯罪者となってしまうか分からない。